我が家には、風紀委員的な存在の娘がいる。
その頭角を現し始めたのは2歳後半くらい。
ドア、引き戸、戸棚の扉。ちょっとした隙間を見つけては閉めて歩く。座りっぱなしで飛び出している椅子を収める。脱ぎっぱなしで反対を向く靴を揃える。
まるで小人の靴屋のように、知らない間に整えられているのが我が家だ。
娘の中では、正しい風景というのが印象強くあって、何かが違う…という違和感にとても敏感なのだ。
どちらかと言えば私も同じタイプなのだけれど、娘の前ではそんなこととても言えない。
そんな、歩く秩序のような娘に言ったことがある。
「なるべく良い言葉を使って、悪い言葉を使わないようにしよう」
秩序を重んじる娘は、たまーに激しく感情的になることがあった。正しくないこと、不条理、矛盾に強く反応してしまう。
もともと笑い上戸で、普段上機嫌でいることが多い分、その反動に驚く。
だからまず自分自身をご機嫌に保つために、使う言葉を選べるといいよな〜…そんな思いだった。
すかさず聞いてくる。
風:「いいことばってなに?」
母:「ありがとうとかいいねとか、嬉しいとか、元気になる言葉」
風:「わるいことばってなに?」
母:「できないとかダメとか、嫌いとか、悲しくなったり嫌だなと思う言葉」
風:「なんでいいことばをつかうの?」
母:「その方がご機嫌で過ごせるし、そうしましょうって本に書いてあったから」
風:「あ〜!だいじなえほんに?かいてあったん?」
ならやらなきゃだね!的な言い方の娘に、母の存在って…とちょっと複雑な気持ちにはなったけれど、伝えたかったことは伝わったらしい。
大谷翔平選手が敬愛しているという、中村天風先生の「根っこからまるごと入れ替えてくれる」ような言葉たちに感謝する。
それから娘は変わった。
感情的に怒ることがなくなったし、地団駄することもなくなった。
もちろん、言葉で伝えられるようになったことが増えたのもあると思うけれど、今までならブチ切れていたような場面で、黙って考えたり、落ち着こうとするようになった。
そして、私が悪い言葉を使うと、しっかり指摘してくるようになったのだ。
母:「それ面倒だな〜」
風:「めんどくさいこといっちゃいけんよ」
母:「あ、そっか。それ大変だな〜」
母:「それとこれとは関係ないよ」
風:「かんけいないとかいっちゃいけんよ。かなしいきもちになるよ」
母:「そっか、それとこれとは別のことだね」
母:「それは好きじゃないな〜」
風:「すきじゃないはいけんよ」
母:「ちょっと苦手かもしれないな〜」
こんな会話が多くなった。
確かに、私が使ったどの言葉も、良い言葉ではないと思う。
言った自分もちょっと突き放しちゃったような感じがするし、たぶん言われた方はよりその冷たさを感じているはずだ。
何に驚きかって、これは良い言葉、これは悪い言葉、と細かく教えたわけじゃないということ。娘が自分で感じて、言葉にしているのだ。
これは、自分の感情、感覚をつぶさに見つめているからこそなせる技なんじゃないだろうか。
自分の感情の機微に敏感というのは、感情を大切にしているということだ。相手の感情も大切にできるということだ。
親になると、感情的になってしまうようなことが増えるのに、理性的でいなければいけない場面が多い。
幼稚園に遅れそうなのに出る直前で大泣き、スーパーで買って買って攻撃、こっちの気持ちなんてそっちのけで主張してくる。怒ってしまう自分に嫌気がさし、八つ当たりめいた言い方をしたことに後悔する。
だからいつの間にか、感情を出さないことが正しいのだと思うようになった。感情なんてなければいいのにとすら思うことがある。厄介者だと。
だけれど、本当にそうなのだろうか?
何を感じ、何を思うかは、進むべき方向を教えてくれたり、忘れていた大事なことに気付かせてくれたりするものなはずだ。
自分の価値観を知り、人の気持ちに寄り添う言葉を教えてくれるものなはずだ。
感情を理性的に伝えることが必要なだけで、感情は不要なものじゃない。
むしろ自分の感情をよく見つめなければ、自分のことも、相手のこともわからないのだ。
大人だからこそ、感情を大切に。
ずぼら母のケツを拭いて歩いてくれる娘はもう4歳。
風紀委員も板についてきて、「さいごまでしっかりしめて」と注意されることも度々だ。
大人の格好をした子どもと、子どもの格好をした大人。
私がギリッギリのところで腐らずにいられるのは、娘のおかげである。

