親子で午前遠足があった土曜日。
それぞれ自由に散策しながら、1時間半くらいかけてスタンプラリーをしたんだけれど、その帰り、自宅までの道で娘が倒れた。
というか、急に動かなくなって、立ったまま意識がなくなった。
暑い日だったから、私は熱中症を疑い、最悪の事態を想像して気が気じゃなかった。
どうすればいいか検索しようにも、手が思うように動いてくれない。誰かに助けを求めに行こうにも、直立不動の娘を抱き抱えることすらできなかった。
ほどなくして全身の痙攣も始まった。
こういう時、落ち着くことが1番大切なのはわかっているはずなのに、娘の名前を呼びながら「どうしよう」ばっかりが頭を埋め尽くし、無力な自分への苛立ちも込み上げて、なんかもうぐしゃぐしゃだった。
只事じゃない雰囲気に、通りすがりの女性が「救急車呼びましょうか?」と声をかけてくれ、痙攣する娘の身体は薄暗いトンネル内に横たわった。
救急隊員の人と通話している間、人だかりに気付いた先生たちも飛んできてくれて(幼稚園からそう遠くない場所だった)、近くで仕事をしていたパパも駆けつけてくれた。
予断を許さない状況には変わりなかったけれど、それだけで救われる思いだった。
救急車に乗ると、娘の痙攣はピタッと止まり、高熱ではあったものの少し安心できる状況になった。
やっと冷静になれた私の頭の中は、「どうしてこんなことになったんだろう」という考えが駆け巡っていた。
スタンプラリーの後半、確かに娘はぐずぐずし出した。
それまではお友だちと元気にはしゃいでいたのだけれど、突然「疲れた」と泣き出してしまった。抱っこしても、にっこりで頑張ろうと応援しても、遠足の後の夏祭り楽しみだね!とそそらせてもダメだった。
きっとこの時から娘は不調だったのだ。だけど、気付けなかった。いや、気付こうとしていなかった。
それは間違いなく、「他人の目を気にする」という呪いにかかっていたからだ。
みんながわいわい楽しむ中、泣いているのは娘だけだった。そのことに私はもやもやしていた。
普段は2時間でも3時間でも楽しんで歩けるのに、こんな時に限って。
変に注目を浴びるし、先生やお母さんたちに気を遣わせるし、あともう少しなんだから頑張ってほしい。泣き止んでほしい。他の子はみんなにこにこ頑張ってるのに。
そんなふうに心がきゅうきゅうとしていたから、視野も狭くなった。考え方も狭くなった。
目の前のことをそのままに、素直に見ることができなくなっていた。
いつもなら見えそうなことも、気付けそうなことも素通りする。寄り添えなくなる。
たくさんたくさんサインは出ていたのに。
母としてだけじゃない。1人の人間として、大事なものを見失っていたと思う。
素直さ、優しさ。
他人の目を気にするだけで、こんなにも私は人間の心を忘れてしまうんだ。
他人の目なんか気にするなとよく言うけれど、こんなに心が死んだ状態になっているなんて、わかっているようでわかっていなかったんだ、と、気付いた。
多少の脱水、空腹、泣いたことによる酸素と二酸化炭素のバランスの乱れ、週末の疲れ。それによる急な体温上昇。
いろんなことが重なり、こういう事態になってしまった。明言はされなかったけれど、熱性痙攣だったのだと思う。
自宅で一度経験済みなのに、思い出してみれば確かに熱性痙攣の時と同じ症状だったのに、1ミリもその想像が働かなかったのも、心が正常じゃなかったからだろう。熱中症なんて思い込んだから、余計に慌ててしまった。
他人の目を気にする自分の心こそ問題だらけだ。
兎にも角にも、たくさんの人に助けてもらい、ただの高熱で済んだことは幸運だった。普段の娘の誠実な行いを、神様が見てくれていたんだろう。
そして、大事なことを忘れるなよという、私へのメッセージだったんだと思う。
側にいる人、大切な人をちゃんと見つめよう。心をちゃんと掬い取ろう。そう強く思った。

