朝、幼稚園の玄関で、いつも顔を合わせるお母さんがいる。
殺伐になりがちな時間帯だということを忘れるほど、物やわらかなそのお母さんに、私はとても好感を持っている。
と言っても、挨拶しかしたことはない。
名札の色を見るに、娘よりも上の「年少さん」クラスの娘さんがいるようだ。(我が家は「満3歳児」クラス。)
娘同士は、教室が隣なのでおそらく交流はあるものの、まだお友だちではないようで、挨拶をするのは私とそのお母さんだけ。
娘から「〇〇おねえちゃんとあそんだよ」という報告はまだないけれど、その時が来たら「たくさん遊べて嬉しかったみたいで、お話してくれたんですよ〜」と、千載一遇のチャンスを狙っていた感なしに、自然に話しかけようと思っている。
こんなことを妄想している時点で、不自然さはダダ漏れそうだけども。
そもそもなぜそんな薄い関係で、そこまで好感を持っているのかというと、そんな関係の私にも「目で笑ってくれる人」だからだ。
まず笑顔の話をすると、笑顔はA段階→B段階になっていると私は思う。
A段階の笑顔は、口角を上げる、標準装備の笑顔。社交辞令的というか、自分のための笑顔なのだ。
私は、自分の気持ちを明るくしたり、第一印象を良くしなければいけない時なんか、とりあえず口角を上げる意識で笑う。口角さえ上がっていれば笑顔には見える。
B段階の笑顔は、一歩踏み込んで、目でも笑う、エビスさまのような笑顔。
これは自分のためというよりは、人に向けた笑顔だと思う。
相手からしたら、もう心を打たれずにはいられない笑顔なのだ。
そのお母さんは、まさにB段階の笑顔を、どこの誰ともわからない私に向けて (いや実際は、誰かくらいわかっているはず) 、躊躇なく発射してくれるのです…!
しかも驚くことに、マスクをつけている時も、目で笑ってくれるのだ。
マスクの時って、もう今日は表情筋使わないぞ!という、仏頂面宣言でもあるわけですよね。
半分以上顔は隠れているし、メイクも表情もテキトーでいい。関わり合いがないのならなおさらで、こっちとしてもなんの期待もない。
だけどそのお母さんは違う。
重力に逆らって、にゅ〜っと目の輪郭を上に持ち上げ、笑ってくれるのだ。
「今日もあなたに会えて嬉しいです」とでも言ってくれそうな雰囲気で。
目が笑っているかどうかなんて、大したことじゃないのでは?と一瞬思った方、絵に描くとよくわかります。

やっぱり全然違う。
私はこのお母さんを遠くに見つけると、娘の手を引きながら、うつむき加減で笑顔の練習をしたりしている。 (ちょっと怖いですね…)
それくらい、自分も心を伝えたくなってしまうのだ。
「おはようございます」
同時に言葉を交わした後、そこにはいつも見る光景。
いろんな親子が登園する騒がしい中でも、落ち着いた温かい2人の世界が出来上がる。
お母さんと離れるのが寂しいのか、靴を脱ごうと座るのだけど、でもやっぱり…という感じでお母さんの足にしがみつく。
顔をお母さんの足にぴたっとくっつけ、手をお母さんの腰の方に回し、たまにこちらをちらっと気にするけれど、やっぱりぴっとし。
幼稚園帽をかぶった頭には、「よしよし」と聞こえてきそうな、優しさを纏った手が添えられ、スッと目線を上げると、あの笑顔が娘さんに一心に注がれているのだ。
私はそこに、信頼関係を見た。
受け止めてくれるという確信がなければ、そんなことはできない。
傷付くとわかっていて手を伸ばせるほど、人は強くない。
私なら、「ほら、みんな靴脱いでるよ。先生待ってるから行こう」とか、言ってしまうと思う。いや、言ってるな、いつも。
人の目とか、自分の正しさとか、大切じゃないもののために大切なものを見失っていることって、実は多いのかもしれない。
遠足のお弁当に入れるパンケーキが失敗に終わり、サランラップも不運にこんがらがって、イライラ任せに洗い物をしていたら、蛇口をシャワーに切り替えず目一杯出してしまい、豪速球の水がボウルの縁を目掛けて放たれ、べったりついていた生地ごと鮮やかに飛び、もちろん見事に浴び、「いそがなくていいよ」と言う娘に「急がなきゃ遅れるの!」と半分泣きながら大きな声をあげた私は、どう考えても見失っている。
急ぐ日に、なぜ「余裕の象徴」であるパンケーキを作ろうとしたのか。
自分の決断を呪った。
あー朝からやらかしたな…
そんな毎日だけれど、微笑ましい親子に心洗われ、今日も一生懸命頑張るのです…!

