私は、「まんが! 100分 de 名著 アドラーの教え」を読んだことがきっかけで、アドラー心理学に興味を持ちました。
アドラー心理学は子育てに必要な教えが詰まってる…!
そう思った教えの1つに、「課題の分離」があります。
これは、子育てで難しい「切り離して考える」というシンプルな方法によって、親子という対人関係は良好になることを教えてくれました。
この記事を書いている時点で、娘は3歳。
まだまだ親と一体、親の判断と管理が必要だと思っていましたが、その考えこそ危ないんだなあと感じています。
親だから、人生経験が長いからと言って、どこまでも口を出していいわけじゃない。どんなに小さい子どもであっても独立した個人。
そんな内容にハッとさせられると共に、「言うことを聞いてくれない…」と悩むことも減り、親子の間で起こるいろんな問題を、冷静にさばけるようになった気がします。
「こんな時どうすればいいんだろう…」
「本当はこうした方が良かったのかなあ…」
そんな、手探りな子育てに奮闘するママさんに、課題の分離という考え方で、少しでも気楽な毎日を過ごせてもらえたら嬉しいです。
アドラー心理学「課題の分離」とは?
アドラー心理学で要になる課題の分離とは、「自分の課題と、他者の課題を分けること」を言います。そもそも課題とは、「その人に与えられた問題」=「その人が解決しなければいけない問題」のこと。
つまり、誰かが代わりに解決できない、むしろしてはいけないことなので、分離する必要があるんですね。
「分離できていないと、衝突を避けることはできない」とアドラーは言います。
「嫌われる勇気」の中でも取り上げられていますが、例えば「勉強する」という課題。これは誰の課題かと言えば「子どもの課題」になります。子どもが果たすべき仕事であって、親が代わりに勉強したところで解決できません。
全く勉強しない子どもを前に、「勉強してほしい」と思う親の気持ちは自然だと思いますが、そこで「勉強しなさい」と叱ってしまうのは、子どもの人生を親が決めるようなもの。
「あなたのためにいっている」というようなことを親はいったりしますが、多くの場合、愛情という名に隠された支配でしかありません。
子どもをのばすアドラーの言葉 子育ての勇気 | 岸見一郎
自分が子どもの頃、親から口うるさく何かを言われるのって嫌だったことを思い出しますが、結局「自分がやらなきゃいけないことくらいわかってるよ!」という気持ちがあったからだなあと。
アドラーの言葉を借りれば、「介入」されたくなかったのだと思います。「これは私の問題だから入ってこないで!」そんな気持ちだったのかもしれません。
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。
嫌われる勇気 | 岸見一郎,古賀史健
親子間で言えば、「子どもの課題には踏み込まない」「子どもの課題を切り捨てる」ということですが、やっぱりちょっと冷たい気がしますよね…子育てを放棄するような感じもするというか…
ですがここで誤解してはいけないのが、アドラー心理学は、子どもの課題を関係ない!と放置したり、放任主義を推奨するものでもないということです。
「課題を分離したうえで、見守り、必要な時は援助する」
これが正しい課題の分離のあり方です。
子どもの課題を分離する。結局何のために必要なの?
子どもを自立させるため
人生には、乗り越えなければならない困難がたくさんありますが、そこには「あきらめずに立ち向かう勇気」が必要になります。要は自立です。何にも支配されず、自分の力で生活すること。生きること。
ところが、親が課題の分離ができず、介入してばかりいることで、自立のための勇気は育たなくなってしまうのです。
子どもが小さい時期の子育ては特に、物理的に出来ないことも多いので、親がやってあげることも多いと思います。
洋服の着脱なんかは、やりたがるけど上手くできなくて大泣き。それを見てこっちも業を煮やしてやってしまう。我が家のあるあるでしたが、これこそ子どもの課題を取り上げてしまっているんですよね。
そうやって、子どもは学ばなくなり、立ち向かう勇気がくじかれてしまうのだそうです。
洋服を着るというのは子どもの課題。貸してと洋服を奪って着せてあげるのは簡単だけれど、それではいけないんですよね。課題の分離ができていない証拠だなあと反省しました。
困難に直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう。
嫌われる勇気 | 岸見一郎,古賀史健
教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」なのです。
幸せになる勇気 | 岸見一郎,古賀史健
赤ちゃんが、周りの大人を見て歩くようになったり、話すようになったりするのは、結局自立に向けた行動。人間はみんな、生まれた時から「向上したい」と願い、「無力な状態から理想の状態を追求するために」生きているんですね。
子どもの課題を切り離すことの大切さを改めて考えさせられました。
人生は、自分で選べることを教えるため
親が介入するのが当たり前になると、子どもが自分1人では何も決められず、またどんな結果も自分の責任ではないという、「依存」と「無責任」の地位に置くことになるとアドラーは言います。これは、家庭での子育ても含め、教育の目標となる「自立」を妨げることになるのは明白です。
どんな小さな選択も全て自分で決められる。
何をするか、どう生きるかは自分で選べる。
そう学んでもらうことが、親のするべきことなんですね。
誰の人生でもない、自分の人生を生きてもらうために。
子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。
幸せになる勇気 | 岸見一郎,古賀史健
アドラーのこの言葉から、自立のための「援助」が子育てのあり方なのだと痛感しました。
親子間の争いを減らすため
前述した通り、課題の分離ができていないことで衝突に繋がりやすくなります。もちろんこれは親子に限ったことではありませんが、「親子という近い関係性こそ重要なこと」です。
なぜかと言うと、親は子どもを大切に想うがゆえに、子どもの課題までも自分の課題だと抱えてしまいがちだから。
進学、就職、結婚など、人生における大きな選択はもちろん、日常に転がる小さな選択すら親はコントロールできないし、してはいけないんです。アドラーの言葉を借りれば、「我が子であっても、親の期待を満たすために生きているわけではないから、ちゃんと線引きしなくてはならない」と。
我が家の話をすると、娘は食べることが大大大好きの大食いちゃん。
いただきますをしてからは、食べすぎてお腹が痛くならないかと常に心配で、「食べすぎちゃいけんよ!」と口を挟んでばかり。そのうえ、お箸を上手になってもらおうと、「お箸使ったら?」と促したりもして、それが原因で、娘の機嫌を損ねてしまい、結果両方とも怒ってるみたいなことがよくありました。
娘からしたら、自由に食べたい!気持ちよく食べさせてくれ!という気持ちなんだから、嫌がるのは当たり前。
食べることは娘の課題。どのくらいの量を食べるか決めるのも娘。
お腹が痛くなったらもちろんかわいそうだし、それによって対応しなければいけない大変さもあるしため息しか出ないけれど、だからといって自分の思い通りにしようとするのは間違っているなあと。
食べ過ぎから学ぶことはあるわけで、むしろ失敗するから学べるわけで、見守ることが必要なんですよね。お箸だって、必要なタイミングで使うだろうし、本人のペースで上手くなるはず。
親子仲良くやっていくために、介入しないことの大切さを感じます。
課題の分離、誰の課題かを見分けるコツ


ここまでいろいろ話してきましたが、課題の分離をするためには、「これは誰の課題か?」という視点で考え、それが子どもの課題ならば踏み込まない、見守るという行動を親は取る必要があります。
ではどうやって課題を見分ければ良いのか…
見分けるポイントとしては、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えることだとアドラーは言います。
要は、「最終的に困るのは誰か?」を考えること。その課題は「困る人のもの」ということになります。
前述した「勉強する」という課題、「食べる」という課題を挙げて見てみます。
| 現状 (=親の悩み) | 子どもが勉強をしない=「勉強をしない」という選択をしている |
| 結末 | 「勉強をしない」という選択によってもたらされる結末 ・授業についていけなくなる ・希望の学校に入れなくなる |
| 引き受ける人 (困る人=課題の当人) | 「子ども」=勉強することは「子どもの課題」 |
| 現状 (=親の悩み) | 子どもがたくさん食べてしまう=「たくさん食べる」という選択をしている |
| 結末 | 「たくさん食べる」という選択によってもたらされる結末 ・お腹が痛くなる ・太る |
| 引き受ける人 (困る人=課題の当人) | 「子ども」=食べることは「子どもの課題」 |
だから、親は踏み込まない。踏み込んではいけない。ということになります。
課題の分離ができると、私は良い意味であきらめがつくというか、これは自分が背負わなくていいんだという、肩の荷が降りるような感覚になります。
自分で決めて納得して生きてもらおう!その決断が実際良くない結果になったとしても、必ず学びはある。そんなどっしりした心で見守れるようになる気がします。
とは言っても、人生経験が少ない子ども。
その時々の欲望や、気分に任せた選択をして、こんなはずじゃなかった…なんてことも起こるはず。なので親は、「決めるのはあなただけど、決めるのに必要なことは教えるよ」という、援助のスタンスでなければいけないんですね。
自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料 ーーー たとえば知識や経験 ーーー があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。
幸せになる勇気 | 岸見一郎,古賀史健
親がやるべき「援助」とは?具体的な3つのポイント
1. それをやることの意味や意義を教える
「勉強」という課題は特に、勉強とは何か?何のためにやるのか?ということを教えるのは大切だと思います。
学校に行き始めると、当たり前のようにススーっと人生に入ってきて、しかも大人たちは勉強を強制してくる。子どもからしたら、頑張るにも頑張れない状況な気がします。
自分たちが生きている世界はどういうところで、社会はどんな仕組みになっているのか、そんなベースの話もできれば、勉強に対しての理解も深まり、向き合い方も変わりそうです。
2. 選択した場合の未来、選択しなかった場合の未来を教える
「勉強する」という選択をした場合、「勉強しない」という選択をした場合の未来を話しておくことで、子どもは、自分の人生をちゃんと考えたうえで決断することができるのではないでしょうか。
親に決められたり、強制されたりする不自由って、たぶんすごく嫌なものですよね。なので、良い面・悪い面を教え、そのうえで、自分で決めていいんだよ。その決断に責任を持ってね。ということを伝える。
子どもに、納得感を持って、後悔しない選択をしてもらうためにとても重要なことだと思います。
3. 全力で応援!「困った時は協力するから言ってね」と伝える
あとは、子どもがした決断をただ信じて見守り、応援する。「困った時は協力するから言ってね」と、必要な時は手を貸すことも伝えます。フォローするからね!というメッセージは、子どもが安心して、自信を持って取り組むことに繋がるはず。
また、そのメッセージによって子どもは、何に困っているのか、何を手伝ってほしいのかを考え、言葉で伝えることも学ぶのかなあと思います。
援助お願いします!の札が上がったら行動する。あくまで自分で決めてもらい、援助はするけど介入はしない。難しいですけど、ものすごく大切なことですよね。
課題の分離を知ってから変わったこと


信じて待ってみる
靴を履く時なんかは、娘は最高にお出かけモードになっているので、早く履きたい!でも上手く履けない!の焦りで大泣きしがち。それが嫌で、最初から私が履かせたり、貸して!と代わりにやったり、介入してばかりでしたが、頑張れ!できるよと応援しながら見守れることも増えました。
「〇〇ちゃんはなんでもできる!」と言うようにもなったりして、信じて待つことの大切を痛感。
また、「手伝えることがあったら言ってね」と伝えるようになったことで、「ママやってくれる?」と、泣かずに言葉で頼める場面を増やしてくれていると感じます。
協力姿勢でいてくれるんだという安心感は、対話で解決することに前向きになれるんだなあと、感動しています。
我が子ではなく「親友」
子どもは「親友」という大事な存在だと気付きました。
親友って、いろんなことをわかり合えるけれど、何でも聞いたり話したりしなければいけないことはなく、良い距離感でお互い味方でいる。そんな仲ですよね。
意見を求められれば言う、だけど決めるのは本人だから、強制はしない。お互い対等で自由。良いところも悪いところも認め合える尊敬の関係は、親子でも大事なことだと実感します。
親友だと気付けたら、言うことを聞く・聞かないとか、そういう話にはそもそもならなくて、言うことを聞かせなきゃという気持ちも起こりづらいなあと。
もちろん、状況によって、今は聞いてくれー!!!!みたいなことはやっぱりあるんですが 汗、なんで言うこと聞かないの…?と悩むことはなくなりました。聞かなくて自然だし、対等を目指すならそれで良いのだと。
結局、課題を分離することは、アドラーが大切にしている「横の関係」が築けるからなんだなあと腑に落ちた気がします。
たくさんの課題にぶち当たる毎日も、課題の分離ができればそれだけで気楽に、悩まずに過ごせる実感があって、「親子という対人関係をシンプルにしている感覚」もあります。
兎にも角にも、いつでも寄り添う、いつでも寄り添ってくれる、そんな親友でありたいと思わせてくれたアドラーに感謝です…!













